「数学する身体」の新鮮な感覚

森田真生「数学する身体」を読んだ。身体が数学をするんか?何じゃそれ?と書店で手に取り、パラパラめくるということが何度か繰り返した後、ようやく入手して読むことにした次第。

なんとも新感覚な本だ。数学における「身体」や「心」の存在、というよりも「身体」や「心」があってこその数学、というべきか。著者がたどり着いたアラン・チューリングと岡潔という二人(特に岡潔)の数学の発想が語られるのだが、これらが心に沁み込んでくるという感覚。

数学をどのように捉えるか、数学とは何なのか、と問われれば、私はこの本の前半で語られる数学こそが数学の全てだと思っていた。まぁ「数学とは」なんて考えたことなかったから、正確にいうと、この本の前半を「数学という学問を言葉で表現するならば、そういうことやわな」と肚に落としながら読み進めただけだが。

古典的な流れに沿った数学の進歩への言及は、ヒルベルトとゲーデル、ニコラ・ブルバキあたりまで。その後にアラン・チューリングが登場し、コンピュータが登場し、遂に岡潔が登場する。チューリングも岡も、それまでに進化してきた数学の中身を否定することなく、別の視点から新しい数学の在り方を提言。松尾芭蕉や道元も重要人物として紹介される。まさか数学の本で芭蕉が語られるとは想像もしなかったが、岡潔の数学観を語るならば、芭蕉の「心」の在り方に触れないわけにはいかない。そしてそのことに違和感を抱くことがないのだから、この本はやはり新鮮な感覚をもたらすものだ。

とても薄い本だし、一般向けに書かれたので読みやすい。だからこそ新しい感覚を味わうことができたのだが、読み終わって「それで、結局、何なのか?」とあらためて問い始めてしまった。岡潔の数学の、つかみどころがありそうでなさそうな感覚。本書前半で紹介される、抽象化に突き進んだ古典的な数学の方が、逆につかみやすいのかもしれない。いずれにしても、この本は、多彩な数学の在り方について考えるための、入り口を提供するものだ。

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